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2006年8月31日(木)
晴れ
書きたいことはいろいろあるのだが、貴重な夏休みにできるだけ集中して次の小説の準備に使いたいため、この日記の更新が滞っている。
朝日新聞に、未成年の親殺しが去年、急増したという記事が出ていた。今年に入っても、どれがどの事件だか覚えていられないほど、未成年の親殺しは多い。表面に出てくる数字だけで軽々に判断するわけにはいかないが、親子の関係がそのような傾向にあることは、他の現象からも理解できる。すなわち、殺人未遂はむろんのこと、自殺も家出も引き籠もりもある種の心の病も、象徴的な意味での親殺しと言える。親への不信感が臨界点を超えて憎悪となり、何としてでも関係を断ち切ろうとするあまり、極限的な行動として表れる。
2週間前にも書いたが、親殺しが増えていることと、「国を守る」「国を愛する」といった言い方が声高に叫ばれ、若い世代がその言葉にシンクロしていくこととは、同根だと思っている。親を尊敬も信頼もしておらず、身近に深く信頼する友人もいない者たちが、率先して「国を愛する」という言説に惹かれていくように私には思える。具体的に信用できる者が身近にいないからこそ、抽象的な「国」を愛したり守ったりするという考えに取り憑かれることで、ようやく自分の居場所を見出すことができるのではないか。そこには、「国」よりもまず自分の友だちや家族や恋人のほうが大切だと思う人々への、憎悪も含まれていよう。そんな連中はエゴイストの個人主義者で非国民だ、と断罪することで、国を愛している自分を正当化したいという、非常に攻撃的で排他的な欲望を、現在の「愛国者」には感じる。つまり、何者をも愛することができない人間こそが、ファナティックに「愛国」を唱えるように思えるのである。
2006年8月22日(火)
晴れ
記録映像作家、岡村淳さんが間もなく来日、日本各地でさまざまな上映会が催されます。詳しくは岡村さんのサイト「岡村淳のオフレコ日記」内の「上映会実施のお知らせ」コーナーをご覧ください。
自主制作のドキュメンタリー映画を、岡村さんも参加しながら、自主的な上映会のみで見たい人に見てもらう、というこのやり方は、ここ2年ぐらいで急速にネットワークを広げ、今回は今のところ8箇所で10作以上が上映されるまでになったようです。他人の言葉に耳を傾けながらご自身の姿勢を貫く強さは、岡村ワールドの魅力の一つですが、それがこのような形で実を熟させつつあることは、私の気持ちを明るくしてくれます。すでに岡村ワールドになじみのある方はもちろん、この魅力にまだ触れていない方も、各地で上映会の開かれるこの機会にぜひ足を運んでみてください。
岡村さんがご自身の意志と姿勢を強く保てる理由の一つは、それだけの経験を重ねてこられたからでしょう。特に、集団で作ることが避けられない映像製作の世界で、いかに志とモラルのない姿勢が他人を傷つけてきたかを実地で体験されてきたことは、岡村作品のテーマとも深く結びついているかと思います。それが、一人で記録映像作品を作るという岡村さんのスタイルを生みだした原動力でもあります。
今回、「岡村淳 ブラジルの落書き」でご紹介するエッセイ「エコロジーを騙(かた)る」も、そんな体験の一つです。このような大人が社会の中核を占め、メディアを動かしているさまは、このエッセイの書かれた9年前よりもさらにひどくなっていると感じます。子どもたちや若い世代が尊敬できる大人を持てない社会は、ただ敵意と憎悪を増幅させるだけでしょう。軽いエッセイという形をとっていますが、この背景には重苦しい事例が無数にひしめいていることを、感じ取ってほしいと願います。
2006年8月16日(水)
雨のち晴れ
「靖国問題」がこんなにクローズアップされたことはかつてなかったし、私もこれほどまでに靖国神社のことを考えたことなどなかった。けれど、問題は戦後もずっと存在し続けていたのであり、それが顕在化するのは時間の問題だっただろう。
しかし、この問題をめぐる言説を見聞していて私が違和感を覚えるのは、国のために死んだ人に哀悼の意を捧げること自体は誰にでも備わっている感情、だとか、祖先を敬うことは自然な気持ち、といった言い方が、どのレベルの議論でも前提となろうとしている点である。これらは本当に自明なことだろうか?
若い世代に首相の靖国参拝支持が広がっていることは、昨日も書いたように、「仮想敵」を作ることで自分を正当化したいという気持ちが原動力となっているように思える。誰も靖国のことなんか話題にしなくても自分は国に殉じた人に哀悼の意を捧げたい強い気持ちがあるのだ、という意識から、靖国参拝が支持されているとは思えない。誰に哀悼の意を捧げるのか、誰に対して無念の感情を抱くのかは、人によって異なる。「国に殉じた人」のイメージは、世代によって大きく違う。かつて皇国少年だった世代には、個々の顔が浮かぶ具体的な友人や近親者だったりするだろう。しかし、私より若い世代の大半にとっては、非常に抽象的なイメージでしかない。
帝国時代の日本のイデオロギーは、天皇を中心として、国家とそれぞれの家族が同心円状につながっていた。だから、国のために死ぬのは天皇のために死ぬことであり、天皇を尊敬する気持ちの始まりは、まず親への尊敬という形で実践された。つまり、「国に殉じた兵士」に哀悼の意を捧げる人間は、何よりもまず親を深く尊敬するということを実践できていなくてはならなかった。(忠義孝行、親を尊敬することが天皇を崇拝することにつながり、それが国家のためになるという戦前の仕組みがどんな感じなのかは、例えば北朝鮮を見れば想像がつくだろう)。
だが、現代の若い世代で、親を素直に尊敬している者たちはどれほどいるだろうか? また、尊敬に値する親がどれほどいるだろうか? 「仮想敵」を必要とする人ほど、身近に尊敬できる人物などおらず、誰をも信用せず、個人としてのコミュニケーションに問題を抱えているように、私には思える。首相はその具体例の一つだ。だからこそ、非常に抽象的な遠い存在を崇拝し、自らのアイデンティティを自分に置かずに、国家という抽象度の高いものに置く。
自分にとって大切な人間を身近に持ち、その人との関係を多大な労力を払って維持したときに初めて、その人の死に対し、深い哀悼の念を抱くのではないか? そのような人間関係を、家族であれ友人であれ恋人や連れあいであれ持てないでいて、どうして「国に殉じた人への哀悼の念」を感じることができるのか? 「哀悼の念」とはいかなる感情なのか、本当にわかっていると言えるのか?
私には、そのような人間のつながりを持てないでいることが、今の「靖国問題」を作り出しているように見える。若い世代にとっては、「仮想敵」を作ることで個人の内面の問題、個人のアイデンティティの問題を一気に昇華させてしまうものとして、靖国神社は機能しているように思える。問題なのは、哀悼の念の捧げ方、なのではない。哀悼の念など本当は持てないでいることなのだ。今の靖国問題はそれを隠してしまっている。
2006年8月15日(火)
曇り
日記再開。
終戦記念日の今日、小泉首相が靖国神社参拝。誰にも狂信者を止めることはできない。
小泉首相は、この数週間、中国を敵視したような発言を強めてきたので、今日の参拝は日本内外の誰もが予想していたとおりだろう。私は、それらの発言をかいま見ながら、ああまた郵政民営化国会の時と同じだと思った。この人は、「抵抗勢力」だとか「民営化反対勢力」だとか、敵を明確に定めてけんか腰になったとたん、にわかに生き生きとし始める。これらの「敵」はみな「仮想敵」であり、本当の敵ではない。小泉首相はいつも、あえて「敵」を想定し、その架空の敵と戦うことでパワーを発揮してきた。敵はこんなに理不尽でその理不尽な敵からまったく謂われのない非難を受けているとの被害妄想をあえて信じることで、異様なエネルギーと存在理由を手にし、自分の正当性を主張してきた。
ここには理論があるようで実は何もない。常に、こんな目に遭うなんて冗談じゃない、戦うのはできれば避けたいけれど、やられた以上、自分を守るためには叩きのめすしかないでしょう、というムキになった感情だけがある。
これがナショナリズムの正体だと私は思う。理屈漬けはあとからどうとでもなる。小泉首相の説明する、8月15日に参拝する理由のように。いや、参拝理由そのもののように。例えば日本がドイツだとして、ヒトラーが神(英霊)として合祀された宗教施設に参拝し、「私は特定の誰かを参拝しているのではなく、国のために死んだ人に哀悼の意を捧げている」と言えば、国内外の人が「そうか、個人の心の問題か。なら仕方ないね」と納得するだろうか?
重要なのは、自分たちは不当な目に遭っているという被害者意識であり、だからこそわれわれはやむなく闘うのだ、という使命感に正当性を持たせることである。その被害者意識すなわちナショナリズムを共有する者たちが、「日本国民」になる。
近代国家(国民国家)と国軍と戦死した兵士の墓は三点セットとして誕生しており、切り離すことはできない。私は、近代国家という形態自体を乗り越える知恵が、20世紀の悪夢を経験した現代人に本当は求められていると思うが、現実は、世界各地で国家主義ないしはその変奏形態である宗教原理主義が、恐るべき速度で強くなっている。つまり、個々人のアイデンティティが、個人を基盤にするものから、国民国家という共同体や宗教のセクトに基づいた共同体を基盤にするものへと、急速にシフトしている。その先に見えてくるのは、その共同体を保持するために殉じる兵士の精神であろう。日本で靖国問題として顕在化しているものは、世界各地の国家主義・宗教原理主義として顕在化しているメンタリティと共通している。
これも予想したとおり、郵政民営化国会とそのあとの総選挙の時と同じく、被害者意識にまみれナメられてたまるかという憤怒に満ちたけんか腰の小泉首相の会見を見て、今の日本のマジョリティは、この言説にまたやられるのだろうな、と思った。そして、実際、首相の靖国参拝を支持する割合は、どうやら大きく上がったようだ。極端に言えば、そのようにして参拝を支持する人には、靖国神社などどうでもいいのだと、私は感じる。自分にアイデンティティを与えてくれるもの、被害者意識を正当化してくれるものであれば、何でもいいのだ。
2006年8月2日(水)
曇りときどき晴れ
おととい、文學界の小説の作業がすべて終了。新作は中篇で「植物診断室」というタイトル。
すぐに次の短篇に取りかかる。これはだいぶ以前からプロットは作ってあったので、物理的な時間の勝負となるが、これもきょう、ほぼ終わり、夕方から実に久しぶりにフットサルへ。2週間、家を出たのはごみ捨て2回に運転免許の更新に行ったくらいで、あとはずっと座ってパソコンを睨んでいたため、きょう電車に乗るなり足腰が萎えているのがわかる。とてもフットサルどころじゃなかった。年端もいかないのに大人たちに混ぜてもらっているお味噌の気分。明日からは海外から友人が来るので、しばらくOFF!
2006年7月31日(月)
曇りときどき晴れ
アイデンティティ、内面の問題をどうするかは、私にとって個人的にも社会的にも最重要のテーマなのだが、それについてまた最近、よく考える。中島岳志さんの新著『インドの時代』(新潮社刊)を読んで書評を書いたことがきっかけとなっている。
現在のインドでも、グローバル化による高度消費社会が急拡大していて、その光景は日本の都市部と大して変わらない。ソウルの南部や北京郊外、メキシコシティ北部など、新興中産階級が憧れて住みたがる新しいお洒落な開発地区は、どこも似たような光景だ。そして、住民も同じような心の問題を抱えることとなる。古い因習から解放されることと、地縁血縁から切り離されることとが同時進行していく一方で、自分のアイデンティティを自分で支えられない、あるいは見失っていく。これらはカウンセリングのような対症療法で根本解決できる問題ではない。個人としてのアイデンティティと、自分の周囲を形成する緩やかな共同体のアイデンティティとの間に、それなりに共有点があれば問題ないのだが、そこに著しい齟齬を来したり、自分のアイデンティティが空白であるために周囲のアイデンティティに侵蝕されやすくなるといったとき、問題は起こる。
中島さんがこの本や他の著作で主張されていることを、私流に非常に乱暴に解釈し直せば、自らの実存(という西洋哲学の用語は使われていないが)を感じる道は無数にあるが、誰もが実存というあり方に置かれていることは変わらない、と説く。実存を感じるための道が宗教であり、誰も(あらゆる生き物も無機物も)が実存のうちに置かれていることの変わりなさが「真実」である。私が共感したのは、自分の実存を感じるために宗教というある種の共同性を持った場を経ながら、その実存を感じるのは個人であること、個人がベースとなっていること、自分が世界の一部として存在していることを感じるために個人が拠点となっていることである。
しかし、宗教の持つ共同性は、政治とシンクロする危うい性質も持っている。内面の問題を性急に解決したくて、自分のアイデンティティをナショナル・アイデンティティに直結させてしまうと、宗教原理主義という政治にからみとられてしまう。それは個人が個人をベースに、個人を越えるもの(世界の実存と己の実存)に覚醒することと、まるで似て非なる、正反対のことである。個人を越えるもの(国家)に目覚めることで、自分のアイデンティティを確立する(国家のために死ぬ存在になる)ことは、単に偉い人に認めてもらうことで自分に価値を見出すという依存でしかない。内面の問題をそのように解決しようとする限り、ファナティックな集団依存が過熱するばかりだろう。
2006年7月26日(水)
晴れ
久しぶりの太陽! おもてに飛び出したいところだが、自宅缶詰が続いている。こんな天気の今日こそフットサルをと思っていたのに、断念。いやもうずっと閉じ籠もりっぱなしなんだから、このへんで息抜きをしたほうがかえって精神的にはいい、なんて言い訳をして、ウェアの用意もしていたのだけど、直前で思いとどまった。本業ではほんのわずかでも手を抜いてはいけない。最後の一秒まで死力を尽くすというプロ意識を、ワールドカップから学んだばかりではないか。
それにしても、4月以降、週休ゼロ日の労働が続く。2月までは、夏服にアイロンを掛ける暇もないと愚痴っていたけれど、今は冬服がアイロン掛けされずに積まれている。8月のお盆を過ぎるまで、このままだろう。友人と全然会えない、自分の読書ができない、映画もいくつも見逃した、もう2週間は掃除機を掛けていない、旅行はおろか買い物にも行けない、この夏はサンダルを買おうと思っていたのに。と、あれだけ時間を割いたワールドカップ観戦を棚に上げて、文句をつぶやく。