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『ドン・キホーテ』を読む者

 

  ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』(第一部1605年、第二部1615年)(註1)は、しばしば近代小説の始まりといわれるが、ここでいわれる近代性とは何を指しているのだろうか。例えば、カルロス・フエンテスは「創造の中における創造そのものへの批判」の存在を指摘し(註2)、オクタビオ・パスは「セルバンテスの作品のもっとも法外な人物でさえ、自己の立場について、ある程度の意識をもっている。そして、その意識は批判的である」と述べ、その意識、すなわち「近代精神の偉大な発明」であるユーモアとアイロニー、現実と理想、狂気と常識の対立が融合によって解消されているという(註3)。ボルヘスも「『ドン・キホーテ』の部分的魅力」において、関連することを述べている。「地図が地図の中にあり、千一夜が『千一夜物語』のなかにあることが、何故われわれを不安にするのか。ドン・キホーテが『ドン・キホーテ』の読者であり、ハムレットが『ハムレット』の観客であることを知ることが、なぜわれわれを落ちつかなくさせるのか。私はその答を発見したように思う。物語の作中人物たちが読者や観客になることができるのなら、彼らの観客であり読者であるわれわれが虚構の存在であることもありえないことではないからである」(註4)
  以上に共通して見られることは、一言でいうと「分裂」である。『ドン・キホーテ』という作品が分裂していて、小説自体の中に、その小説を眺める外部の視線を同居させているということだ。さらに、小説を眺めるというその視線は、すなわち読者の視線であって、読者は実はすでに小説の一部となっているといえる。
  では実際のところ、『ドン・キホーテ』はどのように分裂しているのだろうか。

1.騎士道小説を読む者
  『ドン・キホーテ』第一部の序言でセルバンテスは、多くの騎士道小説の始まりにあるような序文が書けないと言って、大袈裟に悩んでみせる。そこに友人が登場して、その解決法を示す。この友人の口を借りて、セルバンテスは『ドン・キホーテ』執筆の方法を披露する。「あなたのこの著作[『ドン・キホーテ』のこと]は、騎士物語が世間と俗衆に及ぼす勢力や影響を打破するよりほかに、目的を持たないのですから」と、騎士道小説の下らなさを攻撃しつつ、「あなたの本は、どこまでもものまねでゆかなければいけませんよ。ものまねが完全なれば完全なるほど、書くことに手ごたえがあるわけです」と、徹底して騎士道小説を模倣することを宣言している。そして、「あなたの物語を読むと、ふさぎこんでいた者が笑いだし、にこついているものが腹をかかえ、愚人も気を悪くせず、賢人は趣向に感心し、おえら方もばかばかしいとは見ないよう、心ある者なら必ずほめるように、気をくばりなさい」と言わせて、その効用を宣伝している。ところが、この文章とそっくりの言葉が、第一部五十章で、ドン・キホーテの口から語られる。「あの種の本をお読みなされ。すれば、ふさぎの虫などは、追っ払ってもらえますし、まん一わるいくせでもおありなら、それも直してもらえますよ」。つまりセルバンテスは、世の人に『ドン・キホーテ』を、騎士道小説を読むときと同じ喜びを感じながら、読んで欲しいのである。セルバンテスは騎士道小説を批判しつつも、それを読むことの快楽を知り尽くしており、『ドン・キホーテ』もそのような読む快楽を与える書物として書きたかったのだ。セルバンテスはまるで騎士道小説に嫉妬しているかのように、攻撃し真似をする。序言の最後で、サンチョ・パンサという人物を「やくたいもない騎士物語の千冊万冊中に散らばった従士の妙味をことごとく集めて」作ったと述べている部分でも、騎士道小説を貶めるつもりが愛情告白になってしまう。そしていよいよ始まる物語は、最初の宣言通り、徹頭徹尾騎士道小説になりきろうという気持ちに貫かれている。そして、なりきることで揶揄してやろうという意図が、なりきりたいという愛情にいつも裏切られるのだ。
  第一部の物語の始まりには、主人公が自分をドン・キホーテと命名して騎士になろうとする経緯が書いてある。彼はまず、愛読する未完の騎士道小説に対して、「みずからペンを執って、結末を文字どおりにつけてやりたい思いが、幾度となく起きた。もしも、頭にこびりついたもっと大そうな考えにさまたげられなかったら、かならずやり始めて、おそらくは、しおおせたにちがいない」のだった。最初は、騎士道小説を書いてみたくなったのである。それを妨げた「もっと大そうな考え」というのが、「みずから遍歴の騎士となって、[…]読み覚えた遍歴騎士の所行一切にたずさわる」ことで、「憐れむべし、郷士はその槍先きの功名で、少なくとも、トラピソンダ帝国の玉座に登っている身を想像した。すなわち、なんとも楽しいそのおもいと、そこに湧く不思議な悦びとにせき立てられ」るようにして、騎士を模倣し始めるのである。
  読むことの快楽から呼び覚まされる模放したいというやむにやまれぬ気持ちとは、相手の言葉そのものになってしまいたいという欲望である。それは書くことへの衝動から始まる。第一部四十七章で登場する役僧は騎士道小説を批判していながら、良い点のあることも認め、実はその良い点だけを盛り込んだ騎士道小説を書いてみたと打ち明ける。また、二十二章の凶人ヒネス・デ・パサモンテは、ピカレスク小説を読んで、それより波乱万丈な自分の生涯を自伝に仕立て、「真実ばかり書いたんで、その真実のすてきさとおもしろさには、追いつけるうそもないくらいでさ」と豪語する。つまり、自分が主人公のピカレスク小説を、実際に演じつつ書いているのである。
  だが、ドン・キホーテにとっては書くことなど生ぬるい。書くことよりももっと言葉に近づき、言葉そのものになりたいと思う。そこで、すっかり覚え込んでしまった小説の言葉を反芻することで、自分が小説そのものになってみせるのである。その時に、読むことと騎士になることの混同が起こる。ドン・キホーテは役僧に向かって、騎士道小説の面白さをわからせるのに、即興で騎士道物語を創作し語ってみせてから、言う。

騎士道物語をお読みなされ。すれば、あれをお読みなさることからくる喜びをお知りなさろうて。[…]ふさぎの虫などは、追っ払ってもらえますし、まん一わるいくせでもおありなら、それも直してもらえますよ。それがし自身について、申しあげてよいのはな、遍歴の騎士となってこの方、それがしは勇敢であり、いんぎんであり、大まかで、行儀がよく、思いやりふかく、婦人に丁重で、危険をおそれず、かたくなならず、忍耐づよく、苦労にも捕らわれにも幻術にも屈しませぬことじゃ。(五十章)
  ここでドン・キホーテは、騎士道小説を読むことの喜びと利益を説いておきながら、騎士になった自分の喜びと利益を示してしまう。彼にとっては、読むことと騎士になることは同じようなことなのである。例えば、五章で、痛めつけられ倒れたドン・キホーテは「身動きがならないことを知ると、おさだまりの手段にすがることを思いついた。それは、わが身を本にあった事件と考え合わせること」だった。そして、ある詩(ロマンセ)から今の自分の境遇と同じ場面を思い出すと、そこに書かれていることを忠実に真似てみる。すなわち「やるせない思いの見せつけに、地べたをのたうち回り、絶えだえの息づかいで、深手になやむ森の騎士が言ったというせりふを歌いだし」てみるのである。たまたま同じ村の者がそこに通りがかれば、それが詩の登場人物であるマントワ公爵に見えてしまう。このようにドン・キホーテは常に頭に記憶された騎士道物語を読み続けることで、騎士として生きているのである。
  文盲のサンチョ・パンサだけが読まない。だが、彼は人の話した言葉を覚え込んでいる。サンチョのセリフは、村人の間に流布しているおぴただしい格言の連なりでできており、しばしば「村の司祭さまがこう言うの聞いたけど」といっては、説教の言葉を引用する。ドン・キホーテが騎士道の講釈を繰り返すうち、それを覚えて、逆にドン・キホーテに講釈をたれる。十九章で、殴られて歯の抜けたドン・キホーテの顔を見て、騎士道小説の習いに従い「憂い顔の騎士」とあだ名するのはサンチョの方である。ドン・キホーテが書かれた言葉を肉体とする人物なら、サンチョという人物は話された言葉が血となり肉となっている。
  以上のように、『ドン・キホーテ』という小説では、程度の差こそあれ、誰もが騎士道物語に憧れている。そして、各々が目の前にある言葉を取り込み、自分の言葉であるかのように語り始める。セルバンテスが序言で断った通り、他人の言葉を模倣することでその対象に成り代わろうとする小説なのだ。書かれた言葉を真似するだけで、小説は永遠に続くことができる。その結果、作品はセルバンテスの騎士道小説たらんとする意図を越えていく。それは特に第二部で表れることになる。

2.『ドン・キホーテ』を読む者
  『ドン・キホーテ』第二部に入ると、『ドン・キホーテ』という小説自体が、第一部の言葉を真似し始める。第一部では、誰もが騎士道小説を読み、騎士の真似をした。序言の言葉から、登場人物のセリフに至るまで、騎士道小説らしき言葉がめくるめくほど氾濫していた。第二部では、騎士道小説の言葉を真似た第一部の言葉を模倣しようとする。登場人物はすでに刊行されていた『ドン・キホーテ』第一部を読んで、「ドン・キホーテごっこ」を始める。特に第二部の後半を占める公爵の城での出来事は、全員で『ドン・キホーテ』の世界を模倣し、第一部の続きを演じているようなものだ。
  ことに顕著なのが、サルバドール・デ・マダリアーガが指摘するサンチョのドン・キホーテ化(註5)である。ドン・キホーテとの会話を続けて彼の言葉を取り込んでいくうち、サンチョはドン・キホーテにとって代わり始める。第二部五章で、サンチョは妻を相手に、読んだこともない騎士道小説の言葉を引用してドン・キホーテぱりの演説をぶちながら、再び遍歴の旅に出ることを説得し、五十一章で島の太守となると、ドン・キホーテの言葉を思い出しながら統治していく。さらに、ドン・キホーテがつじつまの合わぬ事態に出くわすと必ず口にする「幻術にかかった」という言葉を習得したサンチョは、十章でドゥルシネーア姫を探さねばならくなると、付近にいた野良娘を「幻術にかかった」ドゥルシネーアということにして、ドン・キホーテに引き合わせる。ところが、『ドン・キホーテ』第一部をすでに読んでいた公爵夫人に、「あの娘は本当に幻術によって姿を変えられたドゥルシネーア姫なのだ」と吹き込まれると、自分のついたはずの嘘まで信じ込んでしまう(三十三章)。そのことが物語の終わりまで尾を引く混乱を起こすのだが、そんなサンチョの行動は、第一部で騎士道小説の言葉に従って混乱を巻き起こすドン・キホーテの姿そっくりである。
  一方、ドン・キホーテも変化する。騎士道小説の言葉だけを読みとっていた第一部とは違って、第二部では他人の話にも耳を傾け、他人の言葉をも読むようになる。例えば、十七章でライオンの冒険を無事済ませた後、緑外套の騎士ことドン・ディエゴに、

あなたがてまえを、むちゃくちゃな、気のふれた人間と判断なされたことを、だれが疑いましょう。また、それが当然でもありましょう。なぜと申すに、てまえのふるまいは、そうでないという証明をしませぬからじゃ。だが、それにもかかわらず、てまえはあなたがお思いにそういないほど、気ちがいやばかではないことを、認めていただきたいのじゃ。
と言う。他人の言葉を先取りしたうえで、反論をしているのである。騎士道を理解しないと見るやすぐ懲らしめにかかった第一部に比べ、より理性的な反応となっている。ドン・キホーテは第一部が刊行されたことを知り、第一部で書かれたドン・キホーテ像を意識するあまり、人がドン・キホーテに遭遇したときに口にする言葉をすでに読んでいるのである。彼が読む言葉は、もはや騎士道小説ばかりでなく、『ドン・キホーテ』第一部の言葉なのだ。さらには、六十八章で見られるように、サンチョの言葉までうつってしまう。サンチョが思わず「諺を数珠つなぎにするお株を、わしゃとられただよ。口からぽろぽろ諺を落しなさるは、おめえさまのほうが上手になっただよ」と指摘するほど、ドン・キホーテの口から次々と格言が飛び出してしまうのだ。
  この結果、騎士道小説の言葉に成り代わりたいという欲望は陰りを見せる。『ドン・キホーテ』第一部の言葉を模放する世界は、騎士道小説の言葉からは遠く離れてしまったのだ。次々と目の前にある言葉を取り込んでいくうち(というより、自分の吐いた言葉を自分で真似するうち)、気がつかずに見たこともないところへ来ていたのである。ドン・キホーテの前に広がる光景は、騎士道小説の光景ではなく、『ドン・キホーテ』第一部の光景ばかりだ。そこでは、ドン・キホーテの存在基盤は揺らぎ始める。ドン・キホーテは、第一部では「身共が何者であるかは、身共が心得ておる」(五章)と断言し、反省をすることはなかった。しかし、第二部二十六章になると、ペドロ親方の人形劇を現実に起こっていることと思い込み劇中に殴り込んで人形を壊してしまった後、我に返り、
わしをつけねらう幻術師どもが、あのような人形を、わしの目のまえにおき、やがてやつらが欲するものに変えてしまったのじゃ。[…]わしにはな、ここに起さたことが実際そのとおりに起きとると思えた。[…]とは申せ、身の過ちに対しては、たとえ悪意がなかったにもせよ、進んで償いをいたしたい。
と弁解する。珍しく反省をし、目の眩んだ自分を批判しているのである。ドン・キホーテは、騎士道小説を読むドン・キホーテ1と、『ドン・キホーテ』第一部に書かれていることを知ってしまったドン・キホーテ2とに分裂しており、第二部ではもはや騎士道小説だけを読む無邪気なドン・キホーテには戻れない。ドン・キホーテ2は無邪気なドン・キホーテ1に憧れながらも批判しているのだ。
  追いつめられた彼には、ドゥルシネーアだけが騎士道小説の世界へ戻る頼みの綱となる。彼女にかけられた幻術はサンチョが自分の尻を三千回むちで叩くことで解けて、野良娘の姿から本来あるべき美しい姿に戻ってドン・キホーテの前に現れる、というお告げがあるが、もちろん、尻叩きが済んでもその言葉が実現するはずがない(七十二章)。絶望にさいなまれるドン・キホーテは、騎士道小説の言葉を捨てて、当時流行っていた古代ギリシア風の牧人小説ごっこに鞍替えすることを夢見始め、新しいアルカディアの園にふさわしい新しい自分の名前を考えたりもする。「わしは牧人キホティース、おまえは牧人パンシーノと名乗って、野山や森を歩き回るのじゃ」(六十七章)。
  さらにその分裂を強化することが五十九章で起こる。アロンソ・フェルナンデス=デ=アベジャネーダの贋作『ドン・キホーテ』(1614年)の登場である(註6)。セルバンテスの第二部が第一部を模倣していたところに、別の作者による第一部の模放が出版されてしまったのである。それを読んだドン・キホーテとサンチョは、贋作の主人公たちが自分たちとは似ていないと怒り、なんと贋作の登場人物であるドン・アルバロ・タルフェを登場させると、贋作のドン・キホーテとサンチョが自分たちとは別人であることを宣誓状に書いてもらう。そして「鬼の首でもとったように、大いに喜んだ。二人キホーテや二人サンチョの区別は、自分たちの言動だけでは証明できないかのようであった」(七十二章)。自分たちの正当性を主張しようとすると、逆に自分たちがいかに一貫したアイデンティティのない、あやふやな存在であるかを際立たせる結果になる。人の言葉を模倣しようとする者たちなのだから、自分たちを模放する者を前にして、正当性など証明できるはずがない。
  このように、『ドン・キホーテ』は騎士道小説、さらには第一部に似ようとしながら、言葉を費やせば費やすはど、似ようとする対象から遠ざかっていくのだ。

3.「読む者」のアイロニー
  このような分裂を、二十世紀の作家たちよりも早く、意識的に文学の構成原理とした文学者がいる。十七世紀から十八世紀初頭にかけて、ドイツ・ロマン派を生み出したフリードリッヒ・シュレーゲルである。

  感覚(個々の芸術や学問、あるいは人間などを正しく理解するための)とは、分割された精神である。すなわち自己限定、したがって自己創造と自己破壊の結果である。(「リュッツエーウム断片28」)(註7)
  [アイロニーは]絶対的なものと制約を受けたものとの、あるいは完全なる伝達の不可能性と不可欠性との、解決不可能な相克の感情をふくんでおり、かつまたそのような感情を呼びおこす。(「リュッツエーウム断片108」)(註8)
  ロマン主義文学は、[…]文学的反省の翼に乗って、描写された対象と描写する者との中間に漂い、この反省を次々に相乗して合せ鏡のなかにならぶ無限の像のように重ねてゆくこともできる。[…]永遠にただ生成しつづけていて、けっして完成することがないというのが、ロマン主義文学に固有の性質なのである。(「アテネーウム断片116」)(註9)
  シュレーゲルは、このようなアイロニーによって書かれたロマン主義文学こそが近代文学だと言ったうえで、ロマン派の祖としてセルバンテスの名を挙げている。事実、上記の理論は『ドン・キホーテ』の構成原理そのものともいえるのだ。
  一方、ポール・ド・マンは『時間性の修辞学』で、この論を発展させ、アイロニーが言葉によってのみ生じることを指摘している(註10)
  まず、一人の意識が自分とそれを眺める者とに分裂した場合、重要なのはその二つの自我が本質的に異なった存在であること、つまり、互いに理解できないような存在であることだという。そのような二重化した自我の関係がアイロニーなのである。そして、この分裂は言語のみを手段として引き起こされ、「世界に浸りきった経験的な自我と、差異化と自己定義を試みんとする点でひとつの記号のようになる自我とに」二重化される。つまり「アイロニックな言語は、主体を、まやかしの状態にある経験的な自我と、そのまやかしはしかと認識しているのだと主張する言語という形態でのみ存在している自我とに、分裂させる」のだ。しかし、「だからといって、そう主張する[アイロニックな自我の]言語がほんものの言語になるわけではな」く、自我の最初の二重化とほとんど同時に、新たな分裂が起こらねばならない。一度、分裂してアイロニックな自我が誕生するやいなや、そのアイロニックな自我は再分裂して新たなアイロニックな自我を生み、そのアイロニックな自我がまた…と、分裂は永遠に反復していく。しかし、「アイロニーという修辞様式は、[…]われわれを意識的な主体の苦境に連れ戻す。その意識は、おのれを超えた外部に出ようと苦闘するまぎれもなく不幸な意識」である。経験的な自我、アイデンティティはまやかしであるという認識を「経験世界に適用させることの不可能性というものに、際限なく拘束されつづけなければならない」のだ。分裂を繰り返すほど、より深く言葉の世界に閉じ込もることになるのである。
  『ドン・キホーテ』の第一部が経験的な自我に当たるとすれば、その自我はまやかしだと疑うアイロニックな自我が第二部である。第二部は第一部を、言語で模倣しようとし、その結果アイロニックな存在として分裂するのだ。だが、第一部、第二部にかかわらず、小説は言葉で書かれたものである以上、その存在がそもそもアイロニックなものに転じる可能性を孕んでいる。あがけばあがくほど、よけい言葉の世界に囚われていく。アイロニックな自我は言葉だけで形成された存在である以上、自分が抽象的なものになったという感覚を強いてくる。先に挙げたポルヘスの「読者も虚構の存在かもしれない」という感覚である。アイロニーは、「二度とふたたびイロニーのなかから抜け出ることができなく」なる危険性を抱えているのだ(註11)
  だが、『ドン・キホーテ』を支えているのは、模倣したいという根拠のない欲望である。読むことの快楽に溺れて分裂したとしても、その分裂を一瞬吹き飛ばすものがあるとすれば、それはやはり読むことの快楽なのだ。これは言葉でしかもたらすことのできない快楽と力であり、言葉が強いる抽象的な感覚を打ち破る。言葉に閉じこめられた状況は、同じく言葉への耽溺によってのみ、一瞬破ることができるのだ。以上のような模倣への欲望と分裂のせめぎ合いこそが、『ドン・キホーテ』の近代性なのである。


1)Cervantes,Miguel de:El ingenioso Hidalgo Don Quijote de la Mancha, ed.de John Jay Allen,Mexico,REI−MEXICO(CATEDRA),1987./-----:Segunda parte del ingenioso Caballero Don Quijote de la Mancha, ed.de J.J.Allen, Mexico. REI−MEXICO(CATEDRA),1987.本稿に用いる『ドン・キホーテ』の引用はすべて、岩波文庫版(永田寛定・高橋正武訳、1948−1977年)によるが、ページの表示は省略する。なお、邦訳の『ドン・キホーテ』は、岩波文庫版が1605年版を正編、1615年版を続編、会田由訳のちくま文庫版がそれぞれ前編、後編としているが、原典では1615年版をsegunda parteとしているので、ここでは論旨の上からも1605年版を第一部、1615年版を第二部とした。 戻る
2)Fuentes,Carlos:Cervantes o la critica de la lectura, Mexico,Joaquin Mortiz,1976,p.15. 邦訳、フエンテス、カルロス 『セルバンテスまたは読みの批判』水声社1982年(牛島信明訳) 戻る
3)パス、オクタビオ 『弓と竪琴』国書刊行会1980年(牛島信明訳)pp.312−313. 戻る
4)ボルヘス、ホルヘ・ルイス『異端審問』晶文社 1982年(中村健二訳)p.74. 戻る
5)マダリアーガ、サルバドール・デ 『ドン・キホーテの心理学』晶文社1992年(牛島信明訳)pp.214−215. 戻る
6)セルバンテスが『ドン・キホーテ』第二部を出版する前年、アベジャネーダAlonso Fernandez de Avellanedaという素性の知れない作家が、『ドン・キホーテ第二巻』Segundo tomo del ingenioso Hidalgo don Quijote de la Mancha, que contiene su tercera salida y es la quinta parte de sus aventuras というタイトルの小説を発表、ドン・キホーテとサンチョに新たな冒険を続けさせた。この贋作に激怒したセルバンテスは、第二部のいたるところでそれを攻撃している。 戻る
7)シュレーゲル、フリードリッヒ『ロマン派文学論』冨山房1978年(山本定祐訳)p.23. 戻る
8)同上、P.31. 戻る
9)同上、PP.43−44. 戻る
10)マン、ポール・ド「時間性の修辞学(2)アイロニー」(『批評空間』第一期第2号 福武書店 1991年 保坂嘉恵美訳 pp.101-110.) 戻る
11)シュレーゲル 前掲書、p.247.(「難解ということについて」) 戻る


立教大学ラテンアメリカ研究所報 NO.23 1995年

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