本能について

小説『毒身温泉』の周辺をめぐるエッセイ

※ここからのページはフィクションではありません

 私(著者・星野智幸)の嫌いな言葉に、「本能」があります。性差や家族、さらには民族、国家の起源や性質を説明する際に、この言葉は実に安易に使われています。地図の読めない女、話を聞かない男、子どもを産む性の女は本能的に戦いを避ける、といった通俗な説から、動物は追いつめられると本能的に逃げるか戦うかを選択する、といった、動物の分野では実証されている説まで、さまざまな言い方が見られます。
 しかし、人間は動物の一部ではあるけれど、動物をはみ出してもいるのではないでしょうか。それは、本能に縛られる部分と縛られない部分があるということです。私は全面的に同意するわけではありませんが、岸田秀氏は、人間とは本能の壊れてしまった生き物であり、あらゆる行動をとるのにイメージ・幻想を必要とする、と説いています。何をするにも意識して行動せざるを得ない、本能の命ずるがまま自動的に行動するのは不可能だ、というわけです。
 そこまで極端だとは思いませんが、世の中で本能の仕業だと思われている大半の事柄は、実際は本能のせいではなく、幼いうちから刷り込まれた文化やメンタリティの仕業だと思います。例えば、性欲は本能による欲動であることは確かですが、明確な発情期を持たない人間の場合、無意識の問題も大きく関わっています。無意識とは抑圧された意識ですから、本能とは微妙に違います。そこには、人間が自分を意識するようになる以前(個人の場合は自意識が完成する前)に刷り込まれたり抑圧されたりした文化が、大きく影を落としています。性差による役割意識なども同様です。文化と本能は混同されているのではないでしょうか。そこに明確な境界を引くことはほぼ不可能である以上、安直に本能を持ちだすのは、現状を固定化しようとする態度につながりかねません。
 また、何を「本能」と呼ぶか、という問題もある。本能という言葉を使う人の多くは、漠然としたイメージしか抱いていないと思います。現代では人間を生物としてプログラムしているのは、遺伝子であることがわかってきている。地球上で生命が誕生して以来、古今東西のすべての生物はDNAを持ち、遺伝子を持っており、人間もその例外ではない以上、地球上の生物はどこかで共通するプログラムに縛られていることは確かです。
 しかし、ヒトは動物の進化の過程から外れて、意識を持った。意識がどう発生したのかというメカニズムはわかりませんが、私が今のところ知る限りでは、どうやらそれは言葉を持ったことの結果だと言ってよいようです。意識とは、物事を相対化する立場です。人間は言葉を持った時点で、自分たちが自動的なプログラムに従っていることに気づき、そのプログラムを解除し自分の手で書き換えることを始めた。そこにある食物を食べるのではなく、自分で作り始める。私たちは、本能に縛られているけれど、それを解除したり抑えたり変更したりすることができるのです。
 それが文化です。文化はヒトが作ったプログラムだから、後天的な第二の本能であり、いくらでも修正可能です。実際、常に混交し変化し続けています。そうして現代までたどり着いた。性差や家族や民族といった、文化が作り上げた概念も、その無理と弊害が噴出している以上、もう書き換えてよいのではないでしょうか。それを書き換えるのを拒んでいるのは、現状の文化で既得権益を手にしている層であるわけです。
 以上のことは私が日々の生活をしながら、感じさせられ、考え続けていることです。それを抜きにして自分が生きることはできないのです。これが「毒身温泉」「毒身帰属」(講談社刊『毒身温泉』所収)という小説とどう関わるか。皆さんに、自由に読みとっていただきたいと思います。

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