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学生時代に友人との間で、誰が一番早く結婚しそうかという話題が出たとき、私については最も結婚しなさそうなやつ、という評価が衆目の一致するところとなった。私も自分で、確かに、と納得した。誰かと同居しているとか、パートナーシップを築いているということは想像できても、一般的な結婚式を挙げ夫婦生活を営んでいる姿は、自分でもイメージできなかった。 家族は偶然の産物であり、結婚という制度に守られた「夫婦」とは形式的な人間関係だと感じるようになったのは、中学生のころであり、さすがに今では、もっと複雑微妙な関係だと認識しているが、根本的な違和感は変わっていない。 三十路も半ばを過ぎてくると、二十代とは違った意味で、独り者のあり方が目に入ってくる。結婚をする気はあるのだがなぜか一人のままでいる人間、パートナーと共同生活はしているが結婚はしていない人間、いつしか一人で生きることを選択している人間、離婚した人間、結婚をしているけれど事実上、一人で自分の心を支えている人間。いずれも、婚姻という法律上の制度で守られた形式に則るだけでは、もはや人間関係が立ちゆかなくなっていることを示している。 私は二年ぶりの新著『毒身温泉』で、結婚を核とする家族像を超えた生き方というものを探ろうとした。登場人物たちはみな、さまざまな形での独身であり、一人で生きることの毒をいやというほど吸い込んでいる。単なる独り身とは違って、積極的に独身を選ぶ態度は、その孤独=孤毒を正面切って引き受ける覚悟でもあり、独身とは毒身でもあるのだ。 むろん、誰も一人では生きてゆけない。癒しがたい孤独にさらされてもなお前向きでいられるのは、単数であれ複数であれ、誰かと存在の根幹に関わるような深い信頼関係を築いていたり、その経験と可能性を信じられたりするからだ。つまり、毒身という生き方へと踏み出すことによって初めて、孤独の毒を中和することができるのである。 そんな毒身者たち、すなわち一人で生きる者、結婚ではない形で共同生活をする者、血縁ではない家族を作ろうとする者らが古いアパートに集まり、裏切りと絆の再生を繰り返し、これまでどおりの家族観で生きる者とも入り混じり共存している小世界が、『毒身温泉』である。 これは絵空事ではない。現実のほうが見せかけにしがみついている現在、まともなのはこの小説の世界だと私は思う。 |
トーハン「新刊ニュース」 2002年9月号